2024.2.28

職場の近くにあるバーミヤンにきた。地下で、結構広い。これまで自分が入ったことのあるバーミヤンの中で一番広いかもしれない。なのに、ホールの店員は初老の男性一人で、混んでもいないけれど、あまり余裕はなさそうだった。案内されたテーブルのタブレットは前の客の画面のままになっていて、ボタンをおして店員さんを呼びなおしてもらった。そこれじゃあ注文できないですよねえ、と笑いながらはにかんで対応してくれたそのおじさんは少し痩せ気味だったような気もしなくない。

朝からずっとお湯に浸かりたくて、それは単純に今日が寒い日というのもあるけれど、それ以上に、なにかお湯につからないと満たされないような気分がしつこくある。

実家は宿泊業だったのでいつでも風呂にはいることができた。風呂場に行って、服を脱げば、24時間すぐにお湯に入れた。自分の部屋は風呂場と同じ二階で、他のどの部屋よりも風呂場に近かった。だから、僕は最もあの風呂に入った人間だと思う。風呂はお客さんも使うので、混むような時間は避けて、たいていは変な時間帯に入っていた。朝、どうしても風呂に入りたいときというのがあって、さあ入ろうと風呂場の暖簾をめくると、先客のスリッパがあったりして、そのときはいつも自分の部屋の扉のすぐ内側に立って、風呂が無人になるのを待った。浴室から脱衣所へ人が移動するのも、体をふいて、髪をかわかすのも気配で分かった。

今朝は風呂に入りたい朝だった。起きてすぐ、あたたかい、あついくらいのお湯に浸かるのがどうしても必要なのだと苦しくなりながら布団にくるまっていた。でも諦めて、家をでて、電車に乗った。

2024.2.27

風がすごく強くて、朝から目が痒い。さっき家をでるとき、玄関のドアをあけると隣の部屋の前におじいさん二人がたっていて、風すごいからねえと話しかけられた。誰だったのかよく分からない。隣の部屋に住んでいるのも高齢の男性なのだけれど、その人とは違う二人で、もしかしたら友達なのか、しかし隣の部屋に訪ねてくる人といえば訪問介護のヘルパーさんくらいだと思っていたので、検討がつかない。民生委員とかだろうか。

地元で近所の民生委員をしていたのは、いつも小さい犬を散歩させていた女性で、その人の名前も連れていた犬の犬種も名前も忘れてしまったけれど、なんとなく白くてふわふわしたアウターを着ている、ぼんやりとしたイメージだけがある。子供の頃、近所の大人と会うときというのは、大抵が自分の親と一緒で、その人たちは自分ではなく親に用事があるので、僕なんかは軽く挨拶をすればそれでよい。しかし、犬の散歩中にその人たちと会うと犬以外には私たち二人だけになり、はじめてほんとうに会ったような、そんなかんじになる。何を話したのかはよく覚えていない。犬のこととか、そういう当たり障りのないことだと思うけれど、なんだか生々しく、相手が生きていて、近くに住んで生活しているのだと思わされた。会ってはいけない場所で会ってしまったように感じて、人ではなく犬に話しかけながら急いで別れ、違う道へ進んだ。

明日は仕事なので、今日までのように10時まで寝ているわけにはいかない。駅の改札横にはサンマルクがあるので、できれば朝余裕をもって家をでて、出勤前に一時間くらい作業できたらよい。準備して、仕事にいって、うまくいくといいなと思う。そんなに意気込むような特別な日ではないのだけれど。

 

 

 

 

 

2024.2.26

気がついたら、土曜から四連休ということになっていた。明日まで休み。週三働いて残りは休みなんていう贅沢な暮らしも、あと一ヶ月だと思うと、時間のある今のうちにしておいたほうがよいことがあるのではないかと焦る気持ちが湧いてくる。しかし時間だけあっても、休みが多い分お金もない。外出すると出費が増えるので、外にでるときには後ろめたい気持ちにもなる。

近所のサイゼリヤにはよく行くのだが、お昼の時間帯にいつもいるおじいさんがいて、たいてい自分が来る時にはすでに店内にいて新聞をよんでいるのだけれど、今日はこちらの方が早かった。入り口のところで案内されるのを待つ様子をみて、なんだか新鮮に感じる。すでに席にいて新聞をよんでいる姿しか見たことがなったので、その前後にも、当たり前なのだけれど、それ以外の時間がその人にあるということが、こうしてそれを目撃することではじめてわかる。

小さいとき、自分に会っている時間だけその相手は存在していて、自分と会う前や別れたあとには、その人は消えてしまって、いないというイメージがあった。そんなわけないのだけれど、確かにそう思うのが道理だとも感じる。いつのまにか、自分の直面しているのは世界の一部でしかないということをわかって、生活を送っているわけなのだけれど、こうしてサイゼリヤでおじいさんの入店の様子をみると、いや、わかっていなかったと思う。ほんとうにそれをみるまで、わからない。

北海道の熊害のニュースを読んでいたら、だいぶ時間がすぎていて、二時をまわっていた。熊に害で、ゆうがい、と読むらしい。襲われて亡くなった大学生の名前が実名ででていて、珍しい苗字だったので検索してしまう。事件の記事に並んで、彼の学歴とかインスタのアカウントを追ったまとめサイトがいくつもあった。部活のこととか、進学のこととかがかいてあった。顔写真は載っていなかった。綺麗な顔が頭にうかんで、これは一体誰なのだろうと思った。実際には会えないとか、顔をみれない、誰なのかわからない、そういうほうが相手のことを親密に思えてしまうのは、なんだか、人にはあまり言わない方がよいかもしれない。

 

 

 

2024.2.25

枕元の携帯が鳴って、目が覚めた。電話は祖母からで、僕が目の神経の病気になった夢を昨日みたらしく、なんともないかと訊かれた。布団にくるまって目を閉じたまま、なんともないと答えた。いつもよりも元気そうな声だったので、よかった。

四月までに一度実家に帰りたいけれど、なにも予定していないので、日々のあれこれに気をとられて行けずじまいにならないようにしたい。うっかりしていると、しておいたほうがよい大切なことや、行っておくべき場所のことを忘れて、時間が過ぎてしまう。今の人生から投げ出されて、出禁をくらったような気分にときどきならなくてはならない。そしたら、忘れていた遠くのことを思い出せるような気がする。

2024.2.24

どうにもお腹がすくので、朝から二回朝食をとった。五枚切りのパンを一枚焼いたものをまず食べて、洗濯をして、三回分の洗濯物を干し終わった後、やはり空腹に感じたのでまたパンを焼いて食べた。二回目のほうは二枚焼いて、スープと一緒に食べた。

自分はどちらかというと少食であるという自覚があって、ご飯の量が少なくても、その都度の食事には満足してしまう。でも、その代わりというか、たぶん小腹がよくすく傾向にあって、こうして細切れにパンを食べるということになっているような気がする。

思えば、実家の台所(実家は自営業で家の台所は店の厨房でもあった)にはいろんな菓子パンがストックしてあるカゴのコーナーがあり、なんの気無しにそのコーナーの前を通り過ぎながらパンを手に取って食べるということがあった。小腹が空いたときにパッと胃に何かいれて、しっかりと食べ続けないまま、小腹がすいては少し食べるというのを繰り返す。そういうスタイルが、自分の家の中にはどこかあったのかもしれない。それはきっと、家がそのまま店であるとか、そこで過ごすと生活と仕事が自然と折り重なって、食事が仕事の間に挟まる隙間の部分にずっとあてがわれていたとかと関係していて、そう思うと、今朝の二回の朝食も自分のそういうルーツから導き出された結果でもあるように感じて、なんだか不思議だなと思ったりする。

2024.2.15

東京ではないところに住みたい、とずっと話しているような気がします。先月北海道に行ったのですが、札幌の街がなんだかしっくりときてしまって、東京に戻ってからも札幌での暮らしを妄想し続けています。エアコンだけだと寒いから、ストーブを買うのかなとか、でも車もないだろうし灯油買うのは大変そうだから、そしたらガスファンヒーターもありかあ、とか。

東京に住んでいることが怠惰なことなのではないかと、自分に対して感じることがあります。どこでどんなふうに生活していたらよいのか、その決断というか、踏ん切りみたいなものを、先送りにしている面があるのだと思います。ぼんやりしていたら、その踏ん切りの存在も思い出せなくなって、ずっとこのままで、死んでしまうのではないか。すこし大袈裟ですが、そういった怖さもあります。

でもさっき、新宿三丁目で降りて伊勢丹の前の地上出口にでたとき、たくさんの人の中で、誰も自分のことなんてみていなくて、だから何にでもなれるような、そういう心地よさがふと訪れました。ずいぶん楽観的というか、呑気な感慨でもある気がしますが、人混みの雑多さがもたらす安心感というのに助けられることは少なくないように思います。物理的には人が周りにたくさんいて、でもその中で自分はひとりって、言葉できくと寂しそうなイメージですが、自分はどこか幸福な感覚と結びつくかんじがしました。

 

 

 

 

 

 

2024.2.7

昨日、『ゴースト・トロピック』という映画を見た。同じ監督の『Here』と続けて2本。一昨日の雪がまだ家の周りには残っていて、昨日も冷たい雨がぽつぽつと降っていた。寒かった。

映画の音をきいていて、新幹線にのっているときみたいだと思った。新幹線にのると、車窓から、街が遠くに見える。この遠さ。足音や、服の擦れる音、そういう小さくて些細な音が聞こえるけれど、近くではなく、どこか遠くから眺めているようなかんじがした。そうやって世界や自分から浮き立って、眺めるようなことが、できるといいと思う。そのときの眺めもまた、信じていいものだと思う。