2024.4.8

ここ一週間くらいずっとそわそわしている。焦っている。新生活だから、といえばそれまでで、ありきたりな気持ちの変化なのかもしれないけれど、夜は頭がぐるぐるしすぎないように早く寝て、朝はアラームが鳴る前に目が覚める。

電車の中で、誰かの携帯の画面が目に入る。ここ数日で見たもの。満員電車の田園都市線。「若者はなぜ席を譲らないのか」2chスレ。合同研修の帰りに乗った電車で扉にもたれかかっていた男は放尿する女の動画を眺めていた。

結局自分の焦燥感は、何か卑しい気持ちに由来するものな気がして、それを考えると気が滅入る。しかし、そのままにしておくわけにはいかないのだから、卑しかろうが、みっともなかろうが、気取っていようが、日々をできるだけ頑張るしかない。そうやって何かをして、自分そのものではなく、自分のしたことや、自分を動かすものを信じていくしかない。

 

 

2024.4.1

朝、祖母から電話がかかってきて目覚めた。今日は入社式だから、それで電話をよこしたのだと思う。10時に会社に行けばよいので、思ったよりもゆったりとした朝になる。家から会社までは40分くらいだ。

昼に焼肉を食べた。一緒に食べていた人がランチに焼肉を食べるのは初めてだと言っていた。僕もそうかもしれなかった。ご飯をおかわりして食べた。最近、お腹いっぱい食べるようにしたいと思っている。その分眠くなったりするのだろうか。今日の午後はずっと起きていられた。

帰りは雨が降っていて、100均の貧弱な折り畳み傘を広げて駅まで歩いた。これまでと同じ電車だけれど、乗車する駅が違うと乗り込むことになる車両も変わってくる。今までは端の方の車両に乗ることが多かった。混んでいると思ったけれど、それは車両の位置のせいなのか、時間帯のせいなのか分からない。急行だったからかもしれない。

 

2024.3.28

今日の昼はココスに行った。年度末で最終出勤日。ココスの定番メニューはなんなのだろう。包み焼きハンバーグがきっとそれなのだろう。その割にメニューの中でひっそりとした存在感だったような気がする。ココスにはなんとなく肉のイメージはある。

来週から新しい仕事が始まるのだけれど、どちらかといえば気は重たく、これから行くのは何か間違った場所なのではないかと疑心暗鬼になってくる。どんな場所でも自分を保っていれば何も問題はないのだろうけれど、それも随分体力のいることだ。適応できないとか、上手くやっていけないみたいな不安はあまりない。だからこそ、がっかりするような自分に、あまりにもあっけなくなってしまうような気がして怖い。

 

2024.3.16

昨日からパソコンが不調というか、パソコン自体に問題があるわけではなかったのかもしれないが、ストレージが足りませんとエラーが出たり、プロジェクトを保存できなかったり、ファイルをコピーできなかったりしていたので、午前中からappleのサポートに電話して一時間半ほど、あれこれと対処していた。

通知がきて許可すると、今自分が目の前にしているパソコンの画面が共有されて、電話の向こうの人も同じものを見ることができる。向こうで操作はできないので、携帯から聞こえる指示に従って自分でパソコンをいじくる。遠くで同じものを見ている人と、声を交わして、作業する。パスワードを打つときには画面共有が一旦中止される。できましたーというと、また通知が来て許可する。何回もやるうちにだんだん息が合ってきて、そのリズムは速くなった。

夜にはワークショップの成果発表を見た。楽しかった。勇気づけられた。まず最初に大きな理念の部分に丁寧に触れることで、その後に続く具体のひとつひとつが、より聞こえてくるし、光って見えた。

 

 

2024.3.5

雨。ユニクロの折り畳み傘を持っていたはずなのだけれど、こないだから見当たらない。なんとなく新しいのを買うのが躊躇われて、ここ数週間は雨の気配がある日は多少濡れても平気な上着を着て過ごしていた。

今日は家をでてから雨が降るのだと気がつき、ダイソーに寄る用事があったので五百円の折りたたみ傘を買ってしまった。小さい。頼りない大きさと細さだけれど、その分かさばらない。なるだけ傘はささないでいたい方だし、まあよいだろう。それに小さな傘の方が歩道を歩くとき、すれ違う人とぶつからなくて済む。

ユニクロの折り畳み傘はこれまでに何回か書い直している。だいたい買ってから一年くらい経つとどこかへなくしてしまって、見当たらなくなってしまう。ぼんやりと置き忘れた場所に見当がつくときもあるのだけれど、それも不確かなもので、結局あの傘たちがどこにいったのかは分からないし、なんとなくそれでよい気がしてしまうというか、他のものに比べて、そういうふうに自分から離れていくことに驚きが少ない。もしかしたらもっと大切にするべきなのかもしれない。いつのまにかなくなっているようではなく、その不在にすぐ気が付くくらいに。でもやっぱりそれができない。

ボールペンもよくなくす。ボールペンを最後までしっかり使い切って、ゴミ箱に捨てるまでやりきったことがない。これまでに何本にボールペンを握ったのか検討もつかないけれど、こうやって考えると大量のボールペンをなくしてきたのだと思う。自分のものならまだいいのだけれど、人から借りたボールペンもたくさんなくしたような気がする。中高のとき、人からペンを借りてそのまま返すのを忘れることがよくあった。それ私のだよね、と言われてからはたと気づく。ものへの愛着のある相手からすれば、ひどい行いなのだろうと思う。どうしてそうなってしまうのか、よく分からない。

ペンや傘を軽んじているようなつもりはないのだけど、何かを軽んじている人というのは大抵において自覚のないものだから、僕もそうなのかもしれない。しかし、こうやってそのことについて書きながら、自分のなくした傘やペンを思い起こすと、それに伴う思い出や昔の記憶が蘇ってくるような心地もして、それらとセットになっているペンや傘と自分との関係は、悪くないのではないかとも思ってしまったりもする。これもまた、ペンや傘の側からしたらふざけるなという話なのかもしれないけれど。

2024.3.3

こういう何もすることがない休日には図書館に行く。一番近いのは、家から歩いて三分くらいのところにある。でもそこは税務署なんかが入った合同庁舎の一階で、ワンフロアしかない。それでも十分なのだけれど、もう少し歩くのを厭わなければ、もっと大きくて、地下まである図書館があるのに気がついてからそっちへ行くほうが多くなった。

 図書館にはいろんな人いて、それをみているのも楽しい。本を読んだり、パソコンを開いて作業したりしている。そうやってひとりでいる人の顔を見ていると、初めて会った人なのに、昔から知っている人の新たな一面を見つけたような気分になる。寝顔をみてしまったときのような、愛おしい気持ちが湧いたりもする。

 今日は日曜ですごく混んでいて、地下の席は全部埋まっていたので、仕方なく一階の端の長いソファに座った。いつもは地下の電源もあるところに座る。パソコンを持ってきたので、なにか作業―やっておいた方がいいことはいくらでもある―をしようと思っていたけれど、机のないソファではできないので、本を読むことにした。固有名詞のたくさん出てくる小説で、きっと面白いはずなのだけれど、いつのまにか寝てしまった。ソファは角度があって、首がいたい。

 朝の十時くらいまで寝ていて、それから起きて、シャワーを浴びたり洗濯物をしていたらあっという間に正午を過ぎる。それからまただらだらと過ごして、二時間ほどたった十四時あたりにやっと外へ出る気になって、図書館へと向かうのだ。本当は一日家にいたっていい。でもそれでは今日という休日になんとなく申し訳ないような、というよりも、もっと何かから逃げるみたいにして図書館に向かっているような気がする。

 そうやって過ごす日は、下手をしたら誰とも口をきかないまま一日が終わる。今度携帯にストラップをつけて、一日中自分の口元を録音してみてもいいかもしれない。しかし図書館には「お静かに」というルールがあるから、一日中図書館にいたら誰とも喋らないのは普通かもしれない。

 人と喋らない代わりに、色んなことを思い出して恥ずかしくなったり、機嫌をそこねたりしているので、意外と忙しい。最近、台所でひとり手を動かしながら、声にだして「ああ」とか「くそー」とか言っているのを、自分でよく分かる。人と一緒に住んだりしても、そういうふうに一人で声をあげるのだろうか。でも、人はそうやってひとりで何かを思い出しているときの方が本業で、誰かと一緒にいるときというのは、ひとりのときに何かを思い出すだめの材料をあつめているだけの、おまけみたいなものだという気もしている。

 図書館ではみんなと一緒にいるのに、ひとりぼっちだから、それがいい。それが本当の姿で、みんなお静かに、ひとりぼっちでいるのがよい。

2024.2.29

 祖母から電話があって、ポンカンとみかんを送ってくれたらしい。祖母は果物を人に送るのが好きで、よくいろんな人に送っている。どういう理由なのか分からないけれど、習慣というか、身についたものなのだと思う。ポンカンはすぐ食べると酸っぱいから一週間くらい置いたほうがいい、だから先にみかんの方を食べてと言われた。そう紙にかいてあったらしい。

 一人暮らしなので、果物はものによって消費のスピードが悩ましく、みかんなんかはポイポイとひとりでも一日に何個も食べてしまうのでむしろすぐなくなってしまうくらいだけれど、例えばりんごは悪くしてしまいがちで、前に送ってもらったときは半分以上煮りんごにしてジャムとして食べた。

 一人で暮らしているとスーパーで買う食材というのもだんだん決まってきて、限定されてくる。自分の使いやすいというか、手札にあるようなものしか手に取らなくなる。

数日前、何かの映画をみたときに字幕でブドウという語がでてきて、そのときふと、ああ自分はブドウをこれから自分で買って食べたりすることがあるのだろうかと思った。自分で自分にブドウを買って食べる、そういうシュチュエーションを想像すると少しくすぐったいような感じがする。人に送ったり、一緒に食べることはなんとなくイメージできるし、きっとあると思うのだけれど、例えば食パンみたいに自分で食べるために買ってひとりで食べるにはどうにも芳醇すぎる類のものもあって、ブドウはそれのひとつだ。ブドウをどのくらい食べたかで、そのひとの孤独さを図れるような気もしてくるほどだ。ケーキやビールも贅沢品だけれど、そういうのはひとりでだって食べたくなるし、手が伸びる。そうではない、ブドウのかんじがなんだか、あるように思える。もしかしたら自分の勘違いかもしれない。いずれにせよ、たまには普段あまりかわない果実を手にとってみてもいいのかもしれないし、買って送りつけてみるのもよいのかもしれない。