2024.1.29

昨日の朝、地震があった。午前9時。うっすら目は覚めていて、でもベットの中でうとうとしていたところだった。ベットの横にある机の下に潜った。正月に実家で揺れたときほどではないけれど、横浜で震度4と聞くとわりと大きく感じる。

東京に住んでいたくない。どこか違う場所で生活したいけれど、そのためにはいろんな準備がいる。でも、本当は準備なんかせずに飛び出してしまえばいいのだと思う。数年後の自分がどうにかそれを叶えていられるように祈る気持ちがある。

2023.1.21

風邪気味。北海道に一週間と少しくらいいて、四日前に東京へ戻ってきた。明日からまた仕事。しかし、今朝から鼻水が止まらず、なんだか体調があやしい。多分、家が寒いのがよくない。エアコンの暖房を入れてはいるが、強くすると乾燥してそれはそれでつらいので、あまりガンガンにはしていない。

午後は用事があり、図書館に行った。今までみたことのなかった自然科学系の雑誌の棚の前をとおってみた。ここの図書館にはプラネタリウムが併設されているが、入ったことがない。誰でも見れるのだろうか。

ここ数日、毎日湯船につかっている。体の調子がなんだか気になるのだと思う。気になるということは、多分調子がわるいところがあるのだと思う。ベットで横たわりながらお腹がひえる気がする、と思って手でさすってみた。腹巻きを買えば良いのか。腹巻きなんて、みんな使ったことあるのかな。とりあえずメルカリで検索したけれど、買うつもりはなく、ただお腹まで布団をたぐりよせるだけだった。

 

 

 

2023.1.2

晴れた日。実家にいることに少し飽きてきたかんじがある。そわそわして、少しうろついたりしてみる。近所の神社にも一応いってみた。母か祖父を誘うか15分くらい迷った。二人ともに声をかければよいのだけど、なんだかみんなで一緒にうごくというイメージがうまくできない。自分と母、自分と祖父母みたいに、ずっとバラバラのセットで外へでることが多かった。商売をしていると、家を空にできないからそうなる。

リサイクルショップに車で行った。地震の影響で今日は終日休業だった。隣接している映画館も。今日この日を良い日にしようといったときに、消費することがまず最初きてしまうのは悲しいことかもなのかもしれない、と少し不安な気持ちがよぎる。こうして書いている今。いろんな方法を身につけておきたい。

2024.1.1

元旦の朝から喧嘩。文章にするのがめんどくさいので書かないけれど、栗きんとんが原因。母親が昨日買ってきた一箱600円の栗きんとん。母親と祖父母はこうしてよく些細なことをきっかけにぶつかる。お互い日々の苦労があって、それが小さなところをきっかけに顔をみせる。何度も繰り返されてきたし、これからも繰り返す。どういうことをきっかけにどう怒って、どれにどう反応するのかまで、同じように繰り返す。この劇がこれから変化することってあるのだろうか。例えば僕に子どもができて、妻子をひきつれて帰ってきたりしたら変わるのかもしれない。そしたらまた新しい劇がはじまるだけだ。

9時に駅で待ち合わせて初詣に行くはずだったけれど、間に合わないので不参加の旨をグループラインに送る。中学時代の部活の仲間たち。

実家にいると、外出することへの罪悪感をかんじる。みんなもっと好き勝手に外出してほしい。もともと自営業で自宅が働く場だったからだろうか、みんな働いてるのに自分だけそこから抜けだすような罪悪感。東京へもどる新幹線でも、いつもそんな気分がすこしある。

しかしやはり外へでたくなり、コメダ。元旦もやっているのね。家をでるときには「靴下買いに行ってくる」と謎の嘘をついた。まあ実際、靴下一束しかもってきてないので買わないといけないのだけれど。この一時間でだいぶ救われるものがあると思う。ひとりでコーヒーを飲む。こういう避難というか、自助の術を彼らはもっているのだろうか。それが最も心配かもしれない。それさえあればなんとかやっていけたりするはず。

夕方、地震が起きた。けっこう大きかった。テレビをみて、能登半島のあたりが震源のようだとわかった。津波の警報もでていたからこのあたりはどうなんだろうと市のハザードマップググる。見方がよく分からない。自分の家では停電も断水も起こらなかった。こういう日に限って夕飯は天ぷらだった。あげている最中に巨大地震がおこり油が撒き散らされて火事になるところをイメージしようとしたけれど、うまく想像できない。こういうとき、なにをみて、なにを大丈夫だと思うのか、自分ではよく分からなくて、情報をもとめてしまう。スマホをひらくと心配するメッセージがきていて少しうれしくなった。

 

 

 

 

2023.12.27

4時半起き。タイミー。今日も初めての場所。花の卸売をする市場。家からそんなに遠くないけど、駅からが遠いので自転車を借りて行くことにした。一番近くにステーションがあるドコモのやつは向こうにステーションがないのでだめだと思い、違うレンタサイクルのアプリを前日にいれておいた。借りようとおもったら支払いにつかうデビットカードの残高が全然なくてセブンでゆうちょからおろして、その口座にいれるというあたふたあり。手数料330円で悲しかった。

スタジアムかとおもうようなデカい建物の三階。中央に階段をエレベーターがあって、そこから円をえがくように立体駐車場みたいな空間がひろがっている。トラックが何台もあってダンボールに詰められた花がどんどんと積み込まれていく。やはり市場なので、そういった雰囲気がある。でも魚や肉ではなくて、植物、しかも花というのがなんだか新鮮にかんじる。

タイミーの帰りに寄った図書館で読んだ雑誌に「教育は人を変えられるほど力のあることなのか」みたいなフレーズがあった。この「教育」は「学校教育」のことだと思う。たしかに「教育が変われば世の中も変わる」のだというときにイメージするほど、自分にとっても、学校のカリキュラムとか文部科学省の指針みたいなことが自分の成り立ちに関係している実感はない。

子どもにとって学校や家庭がすべてじゃない。子供として生きると、どこにいって何をしても「学び」の主体にされるの、今思うときつい。リコーダー吹いても、サッカーしても、本を読んでも、計算しても、野菜を育てて収穫して切って煮て味噌汁つくっても、喧嘩しても、タバコとか吸っても、全部「学習」の1プロセスとして解釈されてしまうのやば。自分できついと思ってたわけじゃないけど、客観的に今そう思う。そういう意味で「ゲーム」だけ「学び」として扱われないの、不思議。ゲーム脳になるぞ!みたいな啓発ポスター学校に貼られてたの思い出す。そういう意味で教育はもっと小さいこととして扱われてもよいのかもしれないと思った。軽んじるとか、そういうことではなく。ああ、あらためてこども家庭庁って名前ほんとやだ。

 

 

2023.12.15

ここ最近まるでだめだ。集中力が続かない。やる気がおきない。ひとりのときにできるのは、本や雑誌を少しめくること、ドラマをみることくらい。料理と洗濯はしないとだから、できる。今までどうやって、自分を動かしていたのだろう。まあ、ふつうに働いているし、生活しているので問題ないっちゃないのだけど、このかんじが続いたら苦しい。多分、大きなひとつの苦労というよりも小さな苦労の重なりによって、いま、なにか、沈み込んでいるのだと思う。ぱっと晴れるような何かがたまたま起きれば、また違う調子へと変わるだろう。その、ぱっと晴れるようなな何かを、いつもは自分の中に見つけるのだけど、今回は、誰かに頼ろうとしている気がする。いいことなのか、わるいことなのか、よくわからない。うまくはいっていない。

2023.10.19

昨日まで実家に帰省していた。日曜から水曜まで参加しようと思っていた、山奥の集落で屋根を葺き替える合宿のようなプログラムに申し込みし忘れていて(忘れていたというよりも、覚えてはいたけれどなんとなく後回しにしていたら当日になってしまった)ぽっかり空いた四連休ができたので、後半の二日間かえることにした。

駅につくと母が車で迎えに来てくれていた。母は歯の治療をしたみたいで、少し喋りにくそうに聞こえた。ラインで風邪をひいていると言っていたのでそのせいかと思っていたけれど、どうも滑舌の具合が違っていて、尋ねると歯の治療をしたと言っていた。ほんの些細な変化なのだけれど、そういうものが気になってしまう。声が変わるというのは、その事実以上に何か大きな変化のように感じてしまって、そのことをあまり考えないよう努めた。母の場合は別に声が変化したわけではなく歯の形が変わっただけだけれど。

二日目、前の家の近所のおじいさんのお通夜が駅の近くであるので、それへ向かう祖父の車に乗って駅まで送ってもらった。小学校のとき、冬の部活はスキー1択で下手くそな僕も毎日滑っていた。亡くなったのは、そのとき教えてくれていたおじいさんだった。早く家をですぎて、駅には30分もはやく着いた。セブンで買ったきなこ棒をパン生地でつつんだみたいなパンを食べて電車を待った。コンビニで祖父は飴を二袋買っていた。なんでだろうと思った。