2023.7.1

昨日もお風呂に浸かった。体が温まってくると、だんだんあちこちが痒くなってくる。まえに皮膚科でサウナや長風呂はあまりよくないと言われたのを思い出す。まあいいか。

せっかくお湯をためたので、入るならばある程度ゆっくりと入りたい。痒くなってくるとなんとなくもう出ようかなという気分になってしまうので、途中冷たいシャワーを浴びて、また湯船へというやり方になった。

お風呂のいいところは、他のあらゆる活動を一旦休止せざるをえないところだ。家事や仕事をしながらだとお風呂に入れない。服を脱いでお湯に浸かるのだから、そんな状態で出来ることはあまりに少なく、風呂という時間は風呂に入るしかないということになる。それがいい。

とは言いつつも、浴室の扉の前に本を置いておいて、湯船に浸かりながら本を読んだりしている。手が湯につかると本が濡れてしまうので、体が痒くても掻くことができない。それでかえって痒みに頭が支配されるようで、そうなったら一旦湯船から上がってシャワーを浴び、リセットするしかない。

シャワーをあびながら職場の人のことが頭に浮かんだ。先日、子が熱をだしたそうで午前を休み午後から出勤だった日があった。普段子供のことをほとんど話さないので、そういう瞬間にパッとその人が親であることが僕の前にも立ち現れる。そう思うと、何故だか分からないけれど、自分はその人の子どもなのではないかという発想に取り憑かれる。つまり、自分は本当は熱をだしたその人の子どもで、遠い未来から、昔の親を見にきていて、そのカメラのような存在が自分なのではないか、という。そんなことない。だけど、本当にそう思うことはできるし、なぜだかそのアイデアに非常にしっくりきていることが不思議である。